マジシャンルパン誕生物語
「みんなを笑顔にしたい」という思いに動かされて
~教師からプロマジシャンへの転身~
小学校3年生の時に、学校で自分の特技を発表する「お楽しみ会」がありました。縄跳びや逆立ち、そろばんなどそれぞれ特技を披露する級友たち。私はそんな特技がなかったので父に相談すると簡単なマジックを教えてくれたのです。正直に言うと「こんなの、絶対バレるに決まっている!」と思い、みんなの前で披露するのが嫌で嫌でたまりませんでした。
ところが、やってみると予想外にウケてしまったのです。この経験は衝撃的でした。自分のやったことで友達や先生が笑ったり、喜んだりしてくれることに自分自身が驚き、ワクワクしたのです。すっかりマジックに夢中になった自分は、マジックの本や道具を買っては練習し、家族や友達に見せていました。マジックで皆が笑顔になることに喜びを感じるようになったルーツは、ここにあるのかなと思います。
ろう学校の子どもたちとの出会い
大学では特別支援教育を専攻し知的障害特別支援学校を経て、ろう学校で勤務することになりました。耳が聞こえない子供たちとコミュニケーションをとるために当時は一生懸命に手話の勉強をしました。ところが、ある問題に直面したのです。
私たちは教科書を見ながらでも先生の話を耳で聞くことができますよね?ところがろう学校のお子さんは教科書を読むのに下を向いてしまうと、私が手話をしても見ることができないので伝わらないのです。「お~い!」と呼んでも、机をドンドン!と叩いても聞こえないので顔を上げてくれません。手話によるコミュニケーションの難しさを痛感しました。
その時に思い出したのが「マジック」だったのです。ポケットにマジック道具や面白グッズを忍ばせては、いつも子どもたちに見せるようになりました。「あ、この先生はいつも何か面白いことをしてくれるんだ。」という期待感から、子どもたちは常に私に注目してくれるようになり、手話でのコミュニケーションがスムーズになったのです。
僕たちもマジックをやりたい!
そんなある日、子どもたちが私のところにやって来て「僕たちも表現会でマジックをやりたい!」 と言い出したのです。 その頃、私が得意としていたのはトランプやコインを使ったマジックでした。体育館で演じるには道具が小さすぎて大勢のお客様には見えません。そのことを彼らに伝えると 「先生は箱の中から人が現れたり、剣を刺したりするマジックはできないのですか?」と喰らいついてきます。「できません。」と私。 「じゃあ、勉強してください。」と子どもたち。 そんな経緯で表現会でマジックをすることになったのです。
ステージマジックなど経験のない私は、マジックショップで道具を買ったり、本を読んで研究したり、プロマジシャンのレクチャーを受けたりと、子どもたちの熱意に応えるため奔走しました。大変でしたがちっとも苦痛だとは思わずむしろ楽しかったです。 そしていよいよ表現会当日を迎えました。
「6年生になったら髙田先生とマジックがやりたい!」
当時のろう学校の表現会といえば「和太鼓演奏」か「手話歌」、「手話による劇」が一般的でした。 そんな中、マジックは衝撃的でした。聞こえなくても見ればわかるので子どもたちにも保護者にも大好評だったのです。 会場で見ていた子どもたちはこう言いました。
「ボクたちも、6年生になったら髙田先生とマジックがやりたい!」
当時、私は、高学年をずっと受け持っていたので、子どもたちは6年生になったらマジックをやるんだと目を輝かせて進級してきました。そんな彼らの気持ちに応えたい一心で毎年、新しいマジックを研究しました。 ろう学校に勤務していた11年間は、いつも表現会のマジックのことばかり考えていた気がします。おかげで自宅にはどんどんマジック道具が増えていきましたが、思い出が詰まった道具はどれも宝物です。
人を笑顔にする力
ろう学校から肢体不自由のお子さんの特別支援学校に異動になった2010年。JICAの【教師海外派遣研修】でアフリカのウガンダに数週間滞在する機会に恵まれました。その年、アフリカではサッカーのワールドカップが開催され、厳戒態勢が敷かれていました。ホテルの入り口では毎回、強面の警備員にボディチェックをされていたのですが、ある日思い切って警備員にマジックを見せたところ、さっきまであんなに怖い顔をしていた警備員が「Amazing!」と子どものような笑顔になったのです。警備員は彼の友人を連れてきて「リュージ。俺の友達にも見せてやってくれ。」と大喜び。それ以降、私はボディチェックを受けずに顔パスでホテルを出入りできるようになったのです。
ウガンダに滞在中、学校や養護施設など行く先々でマジックを披露しました。すると言葉は通じないのにみんな笑顔になり、一瞬で仲良くなることができたのです。
マジックには言葉や国境を越えて、人を笑顔にする力がある
と感じた瞬間でした。
東日本大震災
翌2011年に東日本大震災が発生しました。何か我々にできることは無いだろうか?友人の呼びかけに音楽、ジャグリングや音楽、マジックなどのパフォーマー仲間が終結。チャリティ・イベントを開催し、2日間で12万円の義援金を贈ることができました。
その年のGWには高速バスを乗り継いで現地へ行き、微力ながら瓦礫の撤去作業のボランティアにも参加させていただきました。(2011年5月。宮城県石巻市にて)
その後もご縁をいただき、毎年2回、通算10数回にわたり南三陸町を訪問。現在も仮設住宅や復興住宅の皆さんと マジックを通して 交流をさせていただいています。これらの活動を通して
マジックには人々を笑顔にする力がある
ということを再認識したのです。
教師という仕事はやりがいもあり、自分にとっては「天職」だと思えるくらい誇りと愛情を持っていました。自分の勤務する学校の子どもたちとは深く関わることができるのですが、日本中にもっと笑顔を必要としている人たちがいるんじゃないか?もっと大勢の人にマジックで笑顔を届けたいという気持ちがだんだん大きくなってきたのです。だからと言って教師を辞めてプロマジシャンになんてなれるわけがない・・・・そう、自分に言い聞かせて悶々とする日々が続いたのです。
マジックでもっといろんな人に笑顔を届けたい
背中を押された妻の一言
ある日、妻とショッピングモールで買い物をしていると、広場でマジック&バルーンのパフォーマンスショーをしていました。経験の浅いパフォーマーだったのか、ややぎこちない演技を見ていた妻がこう言いました。
「あなただったら100倍楽しいショーができるのに」
『特別支援学校の教師』という職業に誇りとやりがいを感じ、現場の子どもたちのために奮闘している自分。でも、マジックで世の中の人を笑顔にしたいという気持ちが日に日に強くなっているのも事実でした。そんな私をそばで見ていた妻は、じれったかったのでしょう。
ショッピングセンターの雑踏の中でこう付け加えました。
「一度しかない人生、本当に自分の好きなことをやりなよ」
教師を辞めプロマジシャンへ
そんな妻の言葉に後押しされ、2019年3月、31年間務めた教師を辞め、プロマジシャンに転身することを決心したのです。それまでの人生で、一番怖い経験をあげるとしたら「バンジージャンプ」と答えていましたが、教師からマジシャンへの転向はそれより数倍不安で恐ろしかったです。
でも同時にワクワクが止まりませんでした。
プロマジシャンとして歩き始めた自分を一番近くで応援してくれる妻。
いつも、ありがとう。これからもよろしくね。
マジシャン・ルパン
人呼んで笑顔泥棒
あなたの笑顔いただきます